2003年5月より毎日新聞『新教育の森』に連載された記事の第35回目をご紹介します。
2004年(平成16年)4月19日(月曜日)
学校は社会性を育てるか?
−不登校と向き合う時こそ可能性−
「学校は社会性を育てるために必要です」という人の話を聞きながら、「本当に学校で社会性が育つのだろうか?」、むしろ「学校に行くことで、社会性が育たなくなる場合もあるかもしれない!」と思いながら、「社会性って何なのだろう?」との問いが浮かびました。
というのは、学校で素直に先生の言うことをきいて、先生に迷惑をかけない子は、社会の枠に適応しやすい子として、一般的には社会性がある子ということになるのでしょうが、本当にこれが社会性がある状態なのでしょうか?
どちらかといえば学校という場はかなり特殊な空間ですから、社会とは隔絶された場だと言えるでしょう。なぜならクラスには同じ年齢の子ばかりいて、障害を持っている子はほとんどいませんし、外国籍の方、幼児、年寄りも同じ空間にいることはほとんどありません。そればかりか、社会に出れば、問題が起きたときに解決に向かって手伝ってくれる先生のような役割を担っている存在もいませんから、学校という場は先生がいるだけで、社会と異質な空間になっているのです。そんな特異な場である学校で、本当に社会性が育つのでしょうか?
社会性がある人とは、自分と違う価値観の人とでもコミュニケーションができる人であり、仮に同じ場に問題を起こす人がいてもその人の存在を否定せず、他者への適切な配慮ができる人と言えるでしょう。それらができる力は、実際に問題が表面化しやすい場のなかでこそ育ちやすいのであって、問題が起きても、その問題が表面化しにくい場では育ちにくいのです。
そう考えると、不登校の子どもたちは、「学校に行かない」と態度表明した瞬間に、一気にいままで隠れていた問題が表面化し、本人はもとより、その子に対応せざるを得ない人、その姿を見ている人たちをも巻き込んでいきます。いままで自分の味方だったと思っていた親までもがじつはそうではなかったことがわかったり、自分の周囲の人たちが語る言葉の真意が善きにつけ悪しきにつけ、いままでと違うように見えてきたりします。
そんなプロセスを経ていくなかで、その問題とどう向き合うかで、自分の課題が明確になったり、問いが浮かんだりしますから、それに対峙していくことで、不登校になった子どもだけでなく、それに向き合う人たちにも社会性が育ちやすい状況が生まれるのです。
そう考えると、子どもたちの社会性は、問題が表面化しない空間より、問題が表面化する空間でこそ育つように思えるのです。