毎日新聞『新教育の森』に連載された「一人ひとりの子どもたちへ」の記事の第5回目をご紹介します。
2004年(平成16年)11月22日(月曜日)
一人ひとりの子どもたちへ?D
「子どもの人権」は教育の原点
「『お子さんは自分の意見を積極的に言おうとしないんです。手も挙げませんし……』と、先生に言われた」というお母さんから、「どうしたらいいでしょうか?親にできることは何ですか?」と聞かれ、私は「お母さんにできることはないと思います。先生がそう言っていたとしても、それを子どもに伝える必要はないでしょう。それを告げ口というのです」と答えました。
お母さんが先生の言葉をそのまま子どもに伝えれば、「お母さんも僕のことを、積極性のないダメな人間だと思っている」と伝わってしまうかもしれません。そんなことをしても状況はよくならないのです。
私の場合、小学校のときに通知表に「消極的、意欲がない」と書かれ続けましたが、私は吃音だったため、どもったらどうしようと思うだけで、手を挙げられなかったのです。先生から「積極性がない」という的外れな指摘をされても、何の解決にもなりませんでした。そして、そのことの無意味さに気づいた人たちは、今度は「ほめる」を連発します。これも外から刺激を与えて、相手を変えようとするという意味では、「問題を指摘する」と本質的に同じです。
そこで、私は25年前に塾を開いたとき、告げ口的な行為や、ほめてやらせるというようなことは一切しないと決めたのです。私が会社員だったときに、部下に問題があっても、そのことをその部下の家族に話すなんて、思いもしませんでしたから。しかし、学校では、そういうことがいまだに行われています。子どもを人間扱いしていないからできるのでしょう。
そう考えると、教育とは何か特別なことをするのではなく、相手が誰であっても、人として対等に接することが原点だということが見えてきます。「相手が大人だったら、決してしない」と思うことはしないのです。
にもかかわらず現在の教育界では、成果をあげるために、子どもを枠にはめ込み、思いどおりにならない子どもを問題視して、親に協力を求めて子どもを変えようとします。それが子どもの人権を無視している行為だと気づいていないのです。私は子どもに問題が起きても、その子がどうなりたいと思っているのかの確認を取りながら、子どもと私の関係の中でその問題を解決する方法を一緒に模索していきます。
つまり、子どもを自分の思いどおりにしようとせず、「子どもの人権とは何か」の視点から教育を再考することをしなければ、教育の仕組みが根底から変わっていくことはないのです。 (つづく)