平井雷太のアーカイブ

「子どものせい」では変わらない 2004/11/1

毎日新聞『新教育の森』に連載された「一人ひとりの子どもたちへ」の第2回目の記事をご紹介します。

2004年(平成16年)11月1日(月曜日)
一人ひとりの子どもたちへ?A

「子どものせい」では変わらない

 新潟県中越地震があった翌日、鳥取県米子市で「米子こども劇場30周年記念フォーラム」が開催され、パネリストは寺協研氏(文化庁文化部長)と片山善博氏(鳥取県知事)と私の3人でした。片山知事は、新潟の地震が人ごとでなかった様子で、まずは、地震の話からされました。鳥取県西部地震が起きたときに、税金をプライベートなものに投じてはならないという国のルールに片山知事は従わず、個人の住宅の立て替えに県から補助金を出すことを決めたのですが、これは個人の立場に立った大英断でした。

 その話を聞いて、私がやってきたことも、一人ひとりの子どもに向き合った教育をと考えてきましたから、片山知事の発想とどこか近いものがあるかもしれないと思い、いままでのことを整理してみました。 

 現在、学校現場では「できない子」と線を引かれ、授業の対象にされない子どもたちが2割ほどいます。学業不振の子であっても、その子にあった学習をやっていけば誰もが学び続けられるのですが、8割の子を標準に授業を進めるため、2割の子どもたちは置き去りにされているのが現状でしょう。

 望まないのに競争させられ、常に負けた気分を味わっているのですから、学習する意欲を失ってしまうのも当然のことのように思えます。私はこの2割の子どもたちにどう対応していくか、ということが現在の教育において、とても重要なことだと思うのです。

 この子たちは「教師がやるものを決めて、やってこなければ罰を与えて……」という従来の教師主導の教育を受けつけないのですが、見方を変えれば、教育に対する先駆者ともいえるのです。「いまの教育は非人間的で、私たちを人間扱いしていない」と、全身で教育のあり方に異議申し立てをしているようにも思えるのです。

 しかし教育界は、これらの子どもたちにきちんと向き合わず、少人数クラスとか、個別対応等々で処置しようとしています。ときには問題児扱いにしたり、意欲のない子と焙印を押したり、病名をつけて「学習不能児」と自らを納得させる教師もいます。

 放置された2割の子どもたちをそのままにして、やらない子どものせいにする先生がいるから、市民が学校にあまり期待しなくなったのでしょう。この2割の子どもに真剣に向き合うことで、教師がするべきことやしてはいけないこと、教育のあり方、子どもとのコミュニケーションのとり方など、そこから見えてくることは無限にあるのです。2割の子どもたちの教育を考えることで、教育は根底から変わるはずです。(つづく)

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