2003年5月より毎日新聞『新教育の森』に連載された第15回目の記事をご紹介します。
2003年(平成15年)9月29日(月曜日)
「善く生きようとしている」
−だから、子どもも大人も楽に−
村井実さん(慶応大学名誉教授)が、「子どもは善く生きようとしている。それを援助するのが教育」と教育を定義されたのを知ってはいたのですが、どうもピンとはきていませんでした。
その村井さんと最近、お会いする機会があって、「平井さんもあなたの本のなかで私と同じことを言っていますよね。『子どもは皆できるようになりたがっている』」と言われたのです。
目からうろこでした。それまで、「子どもは善く生きようとしている。それを援助するのが教育」という言葉を知ってはいても、それが私が子どもだちとの関係のなかで気づいていった「子どもは皆できるようになりたがっている」という現実とは、私のなかで結びついていなかったからです。
しかし、村井さんから、「子どもは善く生きようとしている」と「子どもは皆できるようになりたがっている」が同じと聞いて、どうして、子どもが採点をごまかしても、時間を計るのをごまかしても、間違い直しをせずに答えを写している現場を見ても、私の腹がたたないのか、その理由が一瞬にしてわかったのです。
それまでは、私はこれは私の問題ではなく、子どもの問題であり、ズルをして困るのは子ども自身であるから、私の腹がたつのはおかしい。私の腹がたったら、これは子どもがしている学習ではなく、私がさせている学習なんだと、自らを納得させることで、次第に腹がたたなくなっていったものだと思っていました。そして、子どもたちは間違ったことをしながら、何をしてはいけないのかを自分で学んでいくのだと、子どものズルを認められるようになり、多くの子どもたちを見ながら、ズルはプロセスなんだと思えるようになっていったのですが、村井さんの教育の定義を聞いて、「そうか、子どもは善く生きたいと思っているから、ズルをするのだ」と腑に落ちたのです。
だとするなら、現在、問題視されている不登校もひきこもりも、「善く生きよう」としているから、そうなるということになります。村井さんの教育の定義に触れることで、人それぞれの人生を肯定し、問題が起きたとしてもそれは「善く生きようとしているからこそだ」と思え、子どもをゆったりと見られるようになるのではないかと思ったのでした。
子どもに起きていることを「問題だ」と決めつけて接するのか、「善く生きようとしている」現れだととらえて見るのかでは、まったく対応の仕方が違ってきます。「善く」という視点を持つことで、子どもも大人もどれだけ楽になることか。「『善さ』とはなにか?」を考えていくことで、教育が根底から変わっていくような予感がしています。