平井雷太のアーカイブ

「やる気」のない子はいない 2003/6/30

2003年5月より毎日新聞『新教育の森』に連載された、第7回目の記事をご紹介します。

2003年(平成15年)6月30日(月曜日)

「やる気」のない子はいない
−振り回されない対応が必要−

 「うちの子は全然やる気がないんです。どうやってやる気を育てればいいのでしょうか?」とよく聞かれるのですが、そのたびに、「どの子にも『やる気』はあります。『やる気』のない子には会ったことかありません」と、私は答えています。

 なぜなら、仮に最大のやる気を100とした場合、誰でも1から100の間を行ったり来たりしていると考えているからです。やる気がない状態からある状態にするのは死んだ子を生きかえらすようなものですから不可能だと思うのですが、「ごはんを食べたい」とか「風呂に入りたい」「寝たい」とかの欲求はありますから、生きている限りやる気はあるわけで、やる気ゼロというのは死んでいる状態なんだと思います。

 ですから、学校の勉強にしても、本当のところでは「できないままでいい」とはどの子も思っていませんから、「すでにあるやる気」を使っていけばいいのです。

 そう思って子どもと関わっていると、子どもの見え方が変わってきます。自分で決めて、自分で「やりたい」と言ってはじめたらくだ教材の学習であっても、簡単にできるところでは毎日スムーズにやれていても、ちょっと壁にぶつかって、なかなか合格しなくなると、お母さんからよく電話がかかってきます。  

 「『もう、こんなのやりたくない、嫌だ』と言って、グズグズ言いながら、なかなかやらないんです。やれば10分ぐらいで終わるのに、やるまでに1時間もかかって……。自分で『やる』って言ったから、やらせたのに、『お母さんがやらせた、僕はやりたくなかったんだ』と言って、泣くし、この前は、ついに私が切れて、『そんなにやりたくないんだったら、やめちゃいなさい』と言って、プリントをやぶいてしまいました。こんなに、やる気がないのにやらせておいて、算数が嫌いになることはないでしょうか」

 こんな話を聞くと、自分で決めてやった学習か、お母さんがやらせた学習かを確かめたくて様子を見ているのですから、子どもは賢いなあと思ってしまいます。子どもがやる気でやっていたときには見えなかったことが、やる気がなくなったときに、まわりのやらせようとしていた本音が見えてくるのです。

 そこで、「そうか、これは私がやりたかったことではなく、お母さんがやらせたかったことだったのか」と理解していくのです。だから、お母さんにはこう話します。

 「お子さんが、『もう、こんなのやりたくない、嫌だ』と言っても、動揺せずに、『そうか、やりたくないか。じゃ、先生に相談してごらん』と言うだけでいいのです。とりあえず、本人の意志で入会しているのですから、私に言えばいいわけで、しかし、教室に来ると家ではなにごともなかったかのように、プリントに取り組む子がほとんどです。多分、お母さんに気持ちを言えただけで、すっきりしたのでしょう。真に受けながら、真に受けない対応が子ども相手の言うことに振り回されないポイントです」   (つづく)

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