2003年5月より、毎日新聞『新教育の森』に連載された記事をご紹介します。
2003年(平成15年)5月12日(月曜日)
「できない」イコール「ラッキーなこと!?」
−教育と評価の関係 再考の必要−
「どうして、このプリントには目安時間があるのですか?」と、私が十数年かけて作ったらくだ教材で学ぶ中2生のU子さんが聞いてきました。らくだ教材は、自分で自分の学び方を決めることができ、どの子もその子なりのペースで学力がついていく教材なのですが、自分で自分の状況がわかるように、一枚一枚のプリントにはすべて目安時間が付いています。大人から聞かれれば、「目安時間があることで、自分がどのくらいできるようになっているのかがわかり、次にすることが決められる」と答えるのですが、U子さんの場合、真意がどこにあるのかわからなかったので、「どうして目安時間のことを聞いたの?」と問い返すと、「目安時間内にできないと、自分をばかだと思い込んでしまうんです」と彼女は答えました。
そこで、「はじめてのプリントに挑戦して、目安時間の5倍かかったらどんな気持ちになる?」と、私はその場にいた15人ほどの塾生(小中学生)に聞いてみました。すると全員がそれぞれの表現で「できない自分」を見るのがどんなに嫌なことであるかを語りだしたのです。いつも評価にさらされていることで、「できない(=よくないこと)」という自己評価をしてしまっているのでしょう。そこで、「できない自分を受け入れることが大事なんだよ」と言うと、「でも、目安時間内にできるとうれしい」と子どもたちは言います。「うれしい、というのはよくわかるけれど、最初からできてしまうプリントだったら、おもしろくないでしょ。できないことは何の問題でもなく、次の課題が見つかったのだからとてもラッキーなことなんだよ。できないことに挑戦していくのは、とても楽しいこと。できないことに挑戦し続ける自分をほめたほうがいいよ」と私は、「できない」イコール「だめな自分」ではないことを伝えました。
大久保利通が学校制度を設ける理由として「無識文盲の民を教化するため」をまず挙げていたのですが、学校制度の出発が「教育」ではなく「教化」だったということからも、その効果を測定するために「評価」が学校教育には不可欠だったことがわかります。
長い間、評価が前提の学校教育だったことで、自分の課題を見つけて自らが学ぶものを選ぶ力や、自分の内なる欲求で学び続ける力など、ほんとうの「学力」がついていかない状況になってしまったのです。
教育と評価の関係を再考する必要があるのですが、では、評価さえしなければ、子どもたちはやる気を取り戻し、自発的になるのでしょうか? そこにはちょっと工夫がいるのです。そのことは次回以降にお話しすることにしましょう。 (つづく)