2003年5月より毎日新聞『新教育の森』に連載された記事の第21回目をご紹介します。
2003年(平成15年)12月9日(火曜日)
「あなたのため」は暴力
−考えよう「子どもとの対等」−
私は気が短く、どなる癖があって、さらに教え好きときていますから、そのままの私で息子の勉強に付き合ったら、すぐに息子から愛想を尽かされるのがわかっていました。そこで「どならない、手をあげない、教えない」という夕ガをかけたのですが、それでも息子は私の圧力を否応なく感じていたと言います。「らくだのプリント(私が作成した教材)をやらなくてもいいよ。あなたの問題だから、やめたっていいよ」と口では言っても、目の奥で「やめたら、ただじゃおかないぞ」と言っていたようです。
私が子どもだったころ、同様なことはいくつもありました。学校や家で、私の意向などお構いなしに、一方的に決め付けられたり、押し付けられたりしたこと。そうしたことで、やる気をなくしたり、傷ついたりした経験をたくさん思い出します。それらの多くは「あなたのために」という理由で成り立っていました。
ですから、自分の子どもに関わるとき、私のやっていることを正当化するために「あなたのために」とだけは言うまいと決めていました。「私がしていることは私がしたいからしていること」であって、決して「子どものため」ではないと考えるようにしたのです。そうした経験から少しずつ「対等とは何か」が見えてきました。
先生と生徒、親と子などの関係では、そこには力の差があり、親や先生は子どもからみれば権力者なわけですから、そこで完璧な対等関係を、先生や親の側からつく作ることは難しい。だからこそ、権力を持った側が、限りなく対等に近づいていく努力をすることが重要です。「対等」という目線で見れば、子どもとの向き合い方のおかしさに気づき、自分自身の支配性を省みることもできます。そして、自分が相手を脅かすことのできる存在だということや、独善的になれる立場だということを自覚していれば、少なくとも指示命令で相手を動かしたり、個々の思いを無視して、全員に対して同じ対応をするなんてことはできなくなるでしょう。そして「あなたのために」という暴力も振るわなくなるでしょう。
完璧に対等にはなれないにしても、行政と市民、先生と生徒、親と子など、支配関係が当たり前と捉えられがちな世界に、あえて「対等」という言葉を持ち込むことで、私は何かが変わっていく気がしています。視線を変え、目の前の相手が自分と同じく、ひとつひとつの繊細な心を持っているかけがえのない存在で、可能性を秘めた個人だと見ることができれば、1対1で向き合ったときの関係が変わり、そこから確実に教育は勣いていくでしょう。ですから、まず「子どもとの対等」を、大人の側ひとり・ひとりが考えるところから教育は変わっていくと考えます。