平井雷太のアーカイブ

意見がない人はいない 2003/12/16

2003年5月より毎日新聞『新教育の森』に連載された記事の第22回目をご紹介します。

2003年(平成15年)12月16日(火曜日)

意見がない人はいない
−「指名されて発言する」ことの意味−

 私は週3回は文京区駒込のすくーるらくだで生徒に対応し、残りの週4回は講座とか講演会で全国各地に出向いているのですが、同じ場所に何度も行っていたことで見えてきたことがあります。主催者が決めたテーマに沿って話しても、参加者はこんな話を本当に聞きたいのだろうか、一方的に話しているのではないかといつも不安になるため、できるだけ一人よがりにならないようにと、会場の方からの質問に答えて話していたのですが、質問する人はいつも決まっていることがわかりました。

 ですから、自主的に手をあげる人の質問にだけ答えていると、積極的で活発な人だけの質問に答えるようになって、手をあげないと決めている方はその場にいても傍観者になってしまいます。そこで、手をあげなくても、私が指名したら何か問いかけをしてくれる方の質問にも答えるようにしたのです。なぜ私がこんなやり方を考えるようになったかというと、私が吃音だったことが影響していると思います。

 私は小学校の6年間、通信簿の所見欄には、「意欲がない、自主性に欠ける、消極的である、言われたことしかしない」と書かれ続けました。それは、「私が手をあげて質問しなくたって、他の人が質問するのを聞いていればいい」と、授業中に手をあげたことがほとんどなかったからです。手をあげて質問をすることをしないだけでなく、わかっていても手をあげて答えることをしませんでした。消極的と書かれても、決して手をあげなかったことで、いまになって、「手をあげて答えること」と「指名されて答えること」の違いが、私のなかで鮮明になりました。

 吃昔者である私の場合、自主的に答えるより、指名されて答える方がずっと楽なのです。前者は言いたいことがあって答えるわけですから、かえってどもりやすくなりがちでした。そして言葉が出ない場合、沈黙している時間に、「自分で手をあげておいて、人の時間を奪って……」と、その場にいる人にそう思われているのではないかと思ってしまい、自分を責めてしまうのです。後者の場合だと、いくら沈黙の時間があっても、私を指名した教師に責任があると思えますから、どもって言葉が出なくても、自分を責めなくてすむのです。

 こんな私の体験から、事前に「指名されたくない方は指名しませんから……」と断って、指名していくと、言いたいこと、聞きたいことがある人がほとんどであることがわかってきました。つまり、指名するとは「強制的に話をさせる」ことではなく、「あなたに発言の時間を保証します」という意味があることがわかり、そのことで積極的な人の声だけでなく、さまざまな方の声を聞いての場づくりができるようになったのです。

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