平井雷太のアーカイブ

自己決定力「選ぶ」だけでは育たない 2003/10/20

2003年5月から毎日新聞『新教育の森』に連載された第18回目の記事をご紹介します。

2003年(平成15年)10月20日(月曜日)

自己決定力「選ぶ」だけでは育たない
−やりたくないことを選ぶ意味−

 いま、公立学校でも、自己決定、自己責任が大流行です。

 教育改革で知られる某中学校に、私が生徒になって国語の授業に参加させてもらったとき、内容は枕草子でした。枕草子のなかの三つの章を黒板に書いて、教師が生徒一人一人に「あなたはどこの章をやりたいか?」と選択を求めてきたのです。

 実際に私がどの章を選ぼうかと具体的に考えはじめたのですが、どの章も選ぶ気になれません。そこで、他の生徒たちはどうやって選んでいるのかとまわりを見回してみると、「どれにしようかな、神様の言う通り」と指で選択肢を追ったり、六角鉛筆に番号をつけてころがしたりするなど、生徒たちが選んでいる様子から、ただ「選ぶ」だけでは決して自己決定力は育だないと思ったのです。

 この選び方を見たとき、この学校での「選ぶ」と私の教室での「選ぶ」は全然違うことがはっきりとわかりました。私の教室では、自分のデータ(ミスと時間)をべースにして、学ぶものを決めますから、適当に選んでいるわけではないのです。仮に、目安5分のプリントが8分15秒でできて、ミスが7個だったとしたら、同じプリントをあと何回やったら合格するだろうかと自分で予測して、自分で選ぶのです。

 ですから、「こんなのもうやりたくない」と思って、それを口にしても、そんな気持ちを否定せず、その言葉に振り回されず、「そうか、やりたくないか! もっとやさしいプリントにしようか?」と対応すればいいのです。やりたくないプリントであっても、それをクリアしなければ、先にすすめないわけですから、やりたくない気持ちを持ったまま、そのプリントを持って帰ったりするのです。

 嫌なことでも、そこから逃げずに、それを選んでいくことで選ぶ力や自己決定力が育ち、それが生きる力にもつながるのです。ですから、選択肢を出して選ばせれば、それで自己決定力が育つわけではないのです。前述の枕草子の場合には、どう選んでいいかの情報がないところで選ばせたことが問題だったのであって、私が教師だったら、クラスを三つのグループにかけて、どのグループがどの章をやるかを提案して、「それでは嫌だ」と言う人だけ、違う章を選んでもらうことをしたでしょう。

 ですから、「なんで子どもたちに選択肢を出して選ばせているのか?」「選ぶことでどんな力が子どもたちに育つと思っているのか?」と選択肢を出す側が自覚することが大切です。そうすれば、子どもが選んだことができなくても、そのことで、「あなたは、自分で選んだのにどうしてやらないの?」と、その子どもを責めることがなくなり、できない子どもに寄り添っていけるようになるのです。

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