2003年5月より毎日新聞『新教育の森』に連載された第17回目の記事をご紹介します。
2003年(平成15年)10月13日(月曜日)
どんな環境でも学べる子どもたち
−「いい学校」「先生」の思いから解放−
近年、「いまの学校は学ぶものをすべて与えられて、選択の自由がない。だから画一的で問題なのだ」と、学ぶものを自分で選ぶ教育がおおはやりです。私もそんな教育に憧れた時期がありました。32年前です。イギリスにあるサマーヒルスクール(A・S・ニイル設立)では、「先生も選べる、授業に出るか出ないかも選べる、学びたいものを学べばいい」というのです。
「世の中にそんな学校があるのか」と信じられない思いで、ぜひ、日本にそんな学校を作りたいと動いた時期もあったのですが、私自身が学びたいものだけを学ぶような学び方をするようになって、人間関係も興味の対象も狭くなっていったことに気づいたのです。
興味と関心で講座に出たり、企画していると、その場で出会うのは似たような考え方の人ばかりです。異論が言えず、予定調和的な雰囲気を感じ、「これって、何か変だ」と思いはじめました。ですから「学校が諸悪の根源だ」と言っている人たちのなかにいたことで、「違いと出会う」ことの大事さを学びました。この視点に立ってみて「学びたくない人が、学びたくないときに、学びたくない人と、学びたくない人から学ぶことができる学校」って、逆に結構おもしろい存在なのかもしれないと思うようになったのですから、大変な変わり様です。
すると、学びたいものを一方的に与えられる学習が受動的だからダメなのではなく、自分で選ぶから能動的でイイという単純な問題なのではなくて、そこに受動的能動性という立場があるということも見えてきました。
学びたいものを自分で選ぶことをせず、「とりあえずどんなものでも能動的に学びます」と事前に宣言してしまう立場です。「選ばない」ということを選ぶことで、何かの目的のために学ぶというのではなく、とりあえず学んでいるうちに、そのことを学ぶことは私にとって、こんな意味があったのかと、あとでその意味がわかってくるわけです。こんな視点が私のなかに育ってくるにしたがって、「いい学校」「いい先生」がいなければ、いい教育ができないという思いから私が解放されていったのです。
そして私自身、17年間の学校教育で、いい学校、いい先生に対する期待も憧れもなくなっていましたから、環境次第でいい教育ができるという考え方から、どんな環境からでも学べる子どもたちはどうすれば育つのか、どんな授業であってもそれを楽しめる子どもたちはどうすれば育つのかが、教育を考えていく上での、私の重要なテーマになっていきました。そのことは次回、触れていきたいと思います。